2010年4月8日木曜日

Vol.38 『中途半端な税知識がアダに』

私は、数年前まで「ちくわ」や「かまぼこ」を作る水産食料品加工業を営むオーナーだった。商品の納入先が大手スーパーだったことから、好景気の頃、飛ぶ鳥を落とす勢いで会社は大きくなっていった。そこで、かまぼこの製造工場とちくわの製造工場を分割して、それぞれ子会社化した。さらに、親会社は子会社が造った商品の卸売り専門会社とした。というのも、当時の制度の下で消費税の簡易課税制度を適用する場合、製造業は第三種事業にあたり、みなし仕入率が90%になるからだ。

かまぼこなどは商品単価が安いため、売上に対して5%の税率で課税される消費税は無視できなかった。そのため、消費税についてかなり勉強したものだ。しかし、その時学んだことが後になって災いの元になるとは考えもしなかった。

急激な景気の悪化は、消費の低迷を加速させ、やがて商品を納めていた大手スーパーの売上にも大きな打撃を与えた。そして、その大手スーパーは銀行からの膨大な借金を返せず、とうとう経営陣が総退陣。全国に出店していた店舗の大半を閉鎖することで、経営再建を図ることになった。

私の会社が商品を卸していた店舗も閉鎖を余儀なくされ、取引は中止。収益は大幅にダウンした。そして私は親会社をはじめ子会社2社も含めて閉鎖することを決意。100人近い社員への給料が滞る前に、会社をつぶして社員全員の生活への影響を最小限に抑えようとしたわけだ。それでも、会社の清算は何かと支払が多く、スムーズに進まなかった。

そこで、資金不足を補おうとして考え出したのが、消費税の還付金の捻出だった。捻出といえば聞こえは良いが、やってはいけない不正還付に手を染めたわけだ。

倒産したとはいえ、在庫となっているかまぼこやちくわを仕入れてくれる会社はいくつかあった。そこで、消費税の計算方式について、簡易課税制度の適用を取りやめて実額課税に変更することで、仕入税額控除をうまく利用することにした。つまり、課税売上にかかる消費税から課税仕入にかかった消費税を差し引いて、マイナスになるとその分が税務署から還付されるという仕組みを悪用したわけだ。

子会社2社から約3億円で商品を仕入れたことにし、約3千万円しか売れなかったとして消費税約1350万円の還付を税務署から受けた。しかし、やはり悪いことはできないものだ。すぐに税務調査が行われてすべてが明るみになった。

2010年4月7日水曜日

Vol.37 『同人誌販売がバレて…』

銀行口座の残高は800万円前後。年収はここ4年で900万円は下らない。この不況の下、30歳を前にした人間としては「それなりの稼ぎじゃないか」、と自負している。しかし職業が職業だけに、クレジットカードのひとつも作れず、冷やかしに入った消費者金融の審査にすらはねられてしまう。そんな私はデビュー8年目の漫画家だ。

某誌新人賞に応募した原稿が編集者の目にとまり、しばらくは読み切りやカット、アシスタントの仕事が続いたが、3年目から雑誌連載のチャンスに恵まれた。大ヒットには恵まれていないが、連載がスタートしてからは、それなりにファンもつき、ネット上には応援サイトもできて、仕事も収入も徐々に安定してきた。「ペット可」のマンションにも入れたし、猫も飼えた。あのころはそれで満足だった。

連載中止の通告は突然だった。まるで、明後日の夜にカラオケに誘うときと同じような、ごく普通の感じで通告されたのだ。私にとっては地獄行きの宣告と同じだというのに。幸い、他誌から新連載の仕事が入ったため、すぐに収入に困るということはなかった。しかし、この日から、「いつ連載を切られるか」という恐怖に駆られるようになった。将来のために蓄財することを考え始めたのは、この頃からだ。税金の申告は、先輩の作家から紹介してもらった税理士にすべて任せていた。幸いというべきか不幸というべきか、その税理士は清廉潔白な人物だった。それだけに、過少申告の相談をするわけにはいかなかったし、私にも税金に関する知識は何もなかった。

では、どうすれば蓄財できるのか?答えは簡単だった。同人誌を売ればいいのだ!「本業」の傍ら、同人誌用の原稿を描きまくった。そして、即売会当日。連載時のペンネームで販売した同人誌の部数は1千部。1部千円。その日のうちに売り切った。ダンボール箱一杯の千円札を見て、「これが100万円かぁ」と感じ入ったことは今でも覚えている。この年から同人誌の作成、販売はルーティンワークになった。部数も2千部に増えた。面白いように貯まったお金は、すべて貯金した。不正と分かっていながら申告はしなかった。

税務署から職員が来たのは、ついこの間のことだ。いわく、「先生、随分多くの同人誌を刷っているんですね」。どうやら、新しく税務署に配属された調査官が私のファンだったらしい。彼らはすでに、同人誌を刷った印刷所、即売会の出席者にもコンタクトを取っていたようだ。3年間の「非合法」な売上と過少申告加算税で、それまでの蓄えはほとんどなくなってしまった。

2010年4月6日火曜日

Vol.36 『通帳抱えて逃げたものの…』

ピンポーン。税務調査官が私の家のチャイムを鳴らしたのは、親父が亡くなってから2年目の秋のこと。親父は膨大な資産を家族に残してくれたため、長男の私はしかるべき取り分を相続し、きちんと相続税を納めていた。ただひとつを除いては――。

雑談後、男性調査官は親父の学歴や職歴、趣味、性格などを聞き始め、女性調査官は私の顔を見ながらメモを取り始めた。私はヘタな事をしゃべらないよう慎重に対応し、調査は順調に展開しているように思えた。

しかし、根掘り葉掘り聞く調査官に徐々に威圧感を感じ始め、親父の死亡直後の現金の使い方について聞かれたときには、恐怖感すら抱き始めた。こんな事まで聞かれるのか?あの事だけは絶対にバレないようにしなければ――。そんな思いを隠すため、私はわざと不愉快さを顔に表し、親父のノートを見せてくれと言われたときは「プライバシーの侵害だぞ!」と怒鳴って見せた。

調査官が来て数時間が経過し、男性調査官の額から汗が出始めてきた。これなら誤魔化し通せるかもしれない。私はその汗を見てなぜか余裕を覚え、座っていた母に、調査官が要求した香典帳を持ってこさせた。

香典帳を手に戻ってきた母は、「これで汗でも拭いてください」とウェットティッシュも差し出した。お礼を言った調査官は母に、「このティッシュに○×銀行と書かれてありますが、お母様が預金されているのですか?」と質問した。「えっ!そっ、それは・・・・・・」。母は返答に窮している。私は頭の中が真っ白になり、隣の部屋に駆け込むと引出しに隠していた○×銀行の預金通帳を掴み窓から外へ逃げ出した。

この預金通帳は、申告後に見つかった親父の財産を預金しておいたものだ。私はその金の一部を、母と同居するためにこの実家を二世帯住宅に改装する頭金にしていたのだ。私は通帳を抱えて無我夢中で走った。今までの人生の中で、考えられないほどのスピードで走った。後ろを振り返ると女性調査官が追いかけてくる。さらにスピードを上げたその瞬間、足がもつれて頭から地面に転がり込んだ。

すぐに起き上がろうとしたが体が動かない。私は逃げ切れない事を悟った。追いつき荒い息遣いをしている女性調査官に預金通帳を手渡すと、しばらくの間、その場にうずくまり続けていた。この私の行動が、申告もれの何よりの証拠となり、本税に加え無申告加算税と延滞金を払う事となった。

思えば、あの時逃げなければ調査の展開は変わっていたかもしれない。だが、今はただ、親父が残してくれた財産に“キズ”をつけたことに深く反省している毎日だ。

2010年4月5日月曜日

Vol.35 『タレントを売り出すために』

「あとは人気スターが出てくれれば……」。小さいながらも念願の芸能プロダクションを立ち上げとき、心の底からそう願った。

だが、なかなか上手くはいかないもの。弱小プロダクションの所属では、よほど飛びぬけた実力がないと難しい。となると、ここは社長の自分が頑張るしかない。親戚中からおカネをかき集め、テレビ局やラジオ局、雑誌、ほかの芸能プロダクションなどの関係者とのコネ作りにつぎ込んだ。とにかく、自分のところのタレントを多く露出してもらうこと。ムダとも思えるおカネを日々、大量に使い続けた。

その甲斐あって、タレントの1人がテレビ出演をきっかけに売れ始めた。これが呼び水となって、ほかの所属タレントにも徐々に仕事が入るようになった。「濡れ手で粟」とはまさにこの世界のこと。人気あるタレントへの番組やコマーシャルのギャラ(出演料)は想像を遥かに越えたものだったし、それ以上に地方への営業などの際に興行主や関係者からもらえる「お見舞金」「お祝い金」の類は、領収書を切らなくても済むケースが多く、かなりオイシイものといえた。

稼ぐお金が増えれば税金もそれだけ増えるのが当然。それは分かっていたが、この業界の場合、なんといっても成功を得るまでに莫大なおカネがかかっている。「たった1人」を売れるようにするまでいくら使ったか……。そうしたことを考えると、成功の“果実”を取られてしまうことが惜しいと思われてきた。

その筋で有名な「コンサルタント」に相談した。俗にいう脱税請負業者というやつだ。彼は、顧問料やコンサルタント料といった名目で架空の領収書をプロダクション宛てに発行した。もちろん、実際にはコンサルティング料は払っていない。しかし、その見返りとして脱税した部分の何割かを裏で渡していた。

この「カラ領収書」は脱税としてはポピュラーな方法だと聞いた。「それで本当に大丈夫なのか」とは思いながらも、その道のプロを信用し、その後も仮装経理を続けた。だが、不安はやはり的中した。

世間一般からも脱税や不正経理のイメージが強いこの業界。当局が放っておくわけがない。折しも、大手芸能プロダクションへの監視が厳しくなり始めたとの噂があった頃で、まず、「請負業者」が踏み込まれた。あっという間に摘発。痛いのは罰金などのペナルティだけではない。人気商売だけにタレントにおよぼす影響も大きい。時期を同じくして看板タレントが落ち目になってしまったのも偶然とは思えない。自分の甘かった考えを猛省する毎日だ。

2010年4月4日日曜日

Vol.34 『ネイルアートに魅せられて…』

私がネイルアート・ビジネスに関心を持つようになったのは10年ほど前。アメリカ旅行中に、知人に誘われて初めてネイルサロンに行ったその日に、「日本でも一般向けビジネスとしてやっていける」とひらめいたのが始まりだった。

爪の健康についてアドバイスしながら色とりどりのマニキュアやツケ爪、アクセサリーを使ったメイクアップ・サービスを提供するネイルサロンは、今でこそ日本でもOLや学生が気軽に利用しているが、当時はまだ特殊な存在だった。

そんななか、ネイルアートの魅力に取り付かれた私は、日本の仕事をやめて本場アメリカのネイルサロンにヘルパーとして入り込み、コツコツと下積みを重ねながら「普通のOLが足を運べるネイルサロン」の実現を目指した。努力の甲斐あって、5年程前にようやく小さなネイルサロンをオープン。後発組ながら、爪の健康管理を前面に押し出した丁寧な対応が客にウケ、着実にリピーターを増やしていった。ビジネスが軌道に乗ってくると、オリジナルブランドのネイルカラーを発売したり、ネイルアートに関するセミナーを開催するなど、少しずつ職域を拡大。ファッション雑誌にも取り上げられ、面白いぐらいに客が入るようになった。普通のOLや学生でにぎわうサロンを目指しながら、下積み時代を思い出して感無量になったあの時の心境を今でも昨日のことのように覚えている。

しかし、「馴れ」とは怖いものだ。儲かれば儲かるほど初心を忘れ、売り上げのことばかり考えるようになった。売上目標を設定し、ピリピリしながら仕事をしているうちに、税金までが惜しくなった。はじめは来店客の間引きによる売上除外から手を付けた。そしてネイルカラーやアクセサリー類などの仕入をごまかすようになり、そのうち、ネイルケア商品の販売やセミナーなどの売上げをごっそり落とすようになった。

ブームとなっているネイルサロンに税務署の目が向いていないはずはなかった。ある日、膨大なデータを手に税務署がやってきた。同業他社と比較して申告内容が不自然なのだという。帳簿類をアレコレ調べられ、交通費伝票から売上げを申告していないセミナーの地方遠征がバレてしまった。これが糸口となり、数々のごまかしが白日の下に――。

加算税などのペナルティは相当痛いが、それ以上に、私の腕を見込んで何度もお店に足を運んでくれたお客様や、信頼してついてきてくれたスタッフを裏切ってしまったことが辛い。貧乏でも、夢を持って頑張っていたあの頃の生活のほうが、ずっと充実していたといまになって実感する。

2010年4月3日土曜日

Vol.33 『おいしい仕事に心が揺らいだ』

不動産市場の冷え込みは、消費税の税率が3%から5%に引き上げられた平成9年4月から一挙に加速度を増した。土地自体や住宅の取引に消費税は課税されないが、建物部分の取引については課税対象となっている。事業用の賃貸ビルの仲介業を主な仕事としている当社は、一挙に収益を落としていった。事務所やテナントの移転を考えていた人たちの多くが、消費税負担に躊躇して、考えを改めてしまう状況が相次いだためだ。

会社収益の落ち込みは激しく、とうとうオーナーである私の給与はストップしてしまった。そんなときに舞い込んできたのが、所有するビル2棟のテナント需要調査とテナントの入居者確保というF社からの仕事。

テナント需要調査の報酬として、100万8千円の請求書をF社に送付した。一方、テナントの入居者確保については、同時に103万3千円の請求をF社に行った。久々にまとまったお金が入ってくることから、「半年間、私は1円の給料も会社からもらっていない。ましてや今回の収益は飛び込みで入ってきた仕事だから、すべて私個人のフトコロに入れたい」というとんでもない考えが浮上。F社への請求書には、私個人の普通預金口座に振り込むよう送金先を指定した。

私がとったその行動は、まさに会社の収益を隠ぺいする行為だった。単純な脱税の手口は、翌年やってきた税務調査でいとも簡単に暴かれてしまった。調査官から売上の除外を指摘されたとき、「それは私がいままで会社に貸し付けてきた金銭を返済してもらっただけだ」と往生際の悪い態度に出てしまったのがまずかった。いま思えば、素直に非を認めていれば事は大きくならなかったはずだ。

確かに、会社の運転資金がショートしそうなとき、私個人の自宅や別荘などの不動産を担保に銀行から融資を受け、それを会社に貸し付けた形を取っていた。しかも、F社から振込まれた金額の大部分は、そうした個人的な借入れの返済に充てている。

そもそもF社に対して代金の振込先を会社の口座にしなかったことは、誰が見ても売上の除外になる。ましてやF社から支払われた事実を会社の帳簿にも記載していない。仕事を請負った契約書が存在するのに、代金が支払われていないとなると、税務署が疑ってかかるのは当たり前。正々堂々と会社の口座に入金してもらい、その上で給料として会社からお金を受取っていれば何の問題もなかったのに。結局、私が会社からくすねた金額は全額役員賞与となり、会社は法人税に加えて重加算税まで納めなければならなかった。

2010年4月2日金曜日

Vol.32 『従業員に還元すればよかった』

私の家は、3代続く「すし屋」だった。私の父は、70歳を過ぎ、すし屋を私と弟に譲ると言ってくれた。

しかし、正直今のすし屋に時代遅れの古臭さを感じている我々兄弟にとって、3代続いているすし屋をそのままの形で受け継ぐ気にはならず、「未来のすし屋」を目指すため日夜兄弟で話し合っていた。当時はやっていた「デリバリー」という言葉で何かできないかなと思っていたのだ。すし屋では出前もあるから、配達は全然目新しいものではない。

満員の店内で客にすしを握りながら、いつものように出前に対応していたある日、配達が1時間以上遅れてしまって、客はカンカンに怒っていた。この客は、いつも出前を頼んでくれるお得意さんだ。平謝りして電話を切ったあと、「うちの常連客は出前のほうが多いのでは」とふと思った。調べてみると、常連客の7割以上が出前客だった。聞くところによると、店内はいつも混んでいてゆっくり食事ができないから、出前を注文するという。

これを聞き、「デリバリー専門のすし屋」を開こうと考えた。父は、ものすごく反対したが、その反対を押し切って店をリニューアルしたのだ。目論見通り、店は連日電話が鳴りっぱなしの大繁盛。すぐに、3号店、4号店と出店ができるほど出す店、出す店が儲かる。店を増やせば、当然「デリバリー」をする人手も必要となる。多くの学生アルバイトやフリーターなどを雇って店を切り盛りしていた。

店が儲かれば当然、税金もたくさん取られる。節税対策を考えていたら、弟が「それなら働いているみんなに時給を上げたり、臨時ボーナスでも出して、もっと気持ちよく働いてもらおう」と言った。しかし、私は弟の意見に耳を貸さずに、“脱税”という手段を選んだ。方法は、従業員の水増しである。不採用となった人の名前を借用して、従業員を水増ししていたのだ。

そんな簡単な手口では、税務署の調査で簡単に見破られることは分かっていながら、それを続けていた。案の定、その後の税務署の調査で脱税がバレてしまった。出勤簿を軽くチェックしただけで、架空人件費を指摘されてしまったのだ。

従業員への還元より脱税を選んだことが、従業員にも知れ渡り、店にとって大切な人々が次々と店を辞めてしまった。今では、1号店舗のみとなり、私が電話を受け、配達は弟がやっている。何事も、人を大切にする心がないとダメなことを実感し、反省している毎日だ。

2010年4月1日木曜日

Vol.31 『門前薬局で大儲けしたが・・・』

Vol.31 『門前薬局で大儲けしたが・・・』

「薬九層倍(くすりくそうばい)」とはよくいったものだ。

原価は1円未満のものが、包装されれば数百円になる。この手口で製薬メーカーが膨大な収益を上げているというのに、どうして我々だけがとがめられなければならないのか?。県で最も大きな病院の前で調剤薬局を開いていた頃、私は常々そう思っていた。だからこそ脱税犯としてお縄になるまで、いい加減な商売をしていたのだろう。

私が経営していた薬局は、いわゆる「門前薬局」というものだ。こういっては語弊があるかもしれないが、大病院の門前薬局経営ほどボロい商売はない。大病院の診療を受けた1日あたり10ダースもの患者が、処方箋を持って門前薬局にやってくるのだ。どれくらいもうかるかというと、私よりはるかに小規模な門前薬局の経営者でさえ、2人の息子を私大医学部に入れつつ毎年海外旅行に行く余裕があった、という事実から察してほしい。客への愛想も要らず、優れた経営手腕を必要としないにもかかわらず、これだけ儲かる門前薬局という商売だが経営上の勘所がないわけではない。大切なのは大病院との信頼関係だ。大病院との信頼関係とは、ありていに言えば「どのくらい病院側にリベートを渡すか」である。

リベートのねん出方法はいろいろある。よくやっていたのは、「振替え請求」という方法だ。そのやり方は簡単にいうと「病院が薬価1万円の薬を処方せんに書く。これを受けた薬局は、その薬と同じ成分である500円の後発品を患者に渡す」というものだ。これで薬価1万円の薬を使ったことにして保険請求すれば、9500円が手に入る。もっとも、振替え請求をはじめとした裏金のねん出や病院へのリベート贈与は、厚生労働省も禁止していることだ。だが、厚生労働省は警察ではない。彼らに告発される心配は何一つなかった。

こうして大病院との蜜月関係が永久に続くかと思われた頃、税務署がやってきた。調査も何もなく突然であった。大病院の院長の脱税容疑を調査していた税務署が、いろいろ調べているうちにリベートの存在を嗅ぎつけたのだろう。

私自身、違法な裏金をねん出していたわけで、“適正な税務申告”をしてきたわけではなかった。だが、裏金のほとんどはリベートとして病院に渡し、私の手許には何も残っていなかったので、まさか脱税でお縄になるとは思っていなかった。税務署員の優秀さと、本丸である病院がお縄になる可能性を考えていなかった己の不明が、脱税で告発されたことにつながったというわけだ。

2010年3月30日火曜日

Vol.30 『生徒利用して売上げ除外も』

大学時代にフリーで家庭教師のアルバイトをしていた。ほぼ毎日“出勤”し、1日に2人の生徒を受け持ちすることもあった。そのうち身体がもたなくなり、同じ学年の生徒を自宅に呼んで、数人ずつまとめて教えるようになった。これが学習塾を始めようと思ったキッカケだ。

駅前の小さなビルのひと部屋を借りて細々と始めたのだが、口コミとライバル業者がとくになかったことが幸いして、生徒は面白いくらい増加。経営規模が大きくなってくると、教科を英語、数学、国語に絞り込み、アルバイトの講師陣を増やして、自分は教壇を降りて管理業務に徹することにした。

教壇を降りた途端、頭の中は「売上げ倍増!」でいっぱいになった。講師に多少無理をしてもらい、夏期講習、冬期講習、春期講習などの季節事業を展開。新しい生徒の獲得に力を注いだ。

季節事業によるスポット売上げに味をしめた私は、いつしかこの年3回の講習から売上げを少しずつ除外するようになった。ときには冬期講習を「なかったこと」にして、その収入をまるごと除外。さらには、数人の生徒を退塾したかのように見せかけて、その分の売上げを除外。そのうち、架空の講師をつくりあげ、人件費の水増しにまで手を染めるようになった。浮いた金は個人的な旅行費用や家事費などに充てた。

しかし、上質紙のパンフレットやポスター、地元ケーブルテレビのコマーシャルなどで派手に宣伝している割には売上げが少ない点が税務署の目にとまり、税務調査を受けることに―。調査官は、時間割表と講師のメンバー表を照らし合わせ、授業を受け持っていない講師への報酬の支払いを指摘。さらに、教材に生徒数を照らし合わせて生徒数以上に教材を購入していることを指摘してきた。架空講師の介在による売上げ除外はあっという間にバレてしまった。さらに、夏、冬、春の季節講習の時期の売上げがさほど高くないことも指摘され、挙句の果てに、脱税したカネで欧州を周って撮ってきて、事務所内に飾ってあった写真を見て、そのカネの出所まで掘り下げてきた。

なるほど、税務調査官はプロだ。慎重に進めていたはずの脱税の数々が、あれよあれよといううちに白日の下にさらされてしまった。こんなことなら、昔のように少人数の生徒相手に細々と個人塾経営をしていればよかった。あの頃の私を慕ってついて来てくれた生徒たちの顔が懐かしく思い出される。生徒たちに面目が立たない。いまはただ、反省しきりの毎日だ。

2010年3月29日月曜日

Vol.29 『キャバクラで“つまみ申告”』

とにかくキャバクラには目がなかった。やり手の営業マンとして若い割には給料をもらっていたこともあり、週に4回、5回、足しげく通った。ほかに趣味はない。お金はかかったが損をしたとも思わなかった。だがそのうち、「商売」としての魅力を感じ始めていた。

「この程度のサービスでこんなに高い金を取っているのに客が入る。ビジネスとしての旨みはかなり大きい。自分が客の立場でこんな店があれば、というのを実現すれば必ず成功できる」。これまで自分が多くの店に出入りし、遊んでいたことが妙な自信につながった。

日につれ、その思いは強くなり、ついに会社を退職。退職金のほか、親戚、知り合いから資金をかき集め、小さいながらも店をオープンした。開店当初が肝心だった。これまで客として培った“人脈”を駆使してキレイどころを集めた。「あの店にはカワイイ子やノリのいい子が多い」という評判を得ることが、店を流行らせる絶対条件。もちろん、常勤では難しい女の子も一時的に来てもらった。とりあえずお金を積めばなんとかなるのがこの業界のやりやすい点でもある。

こうした苦労や“投資”が実って、開店早々客足は伸びた。基本的な料金を安めに設定したのも功を奏した。単価が低くても客の数が多ければ売上げは多くなる。となると、後は人件費を削って収益も高くするだけ。さすがに店のナンバー1やナンバー2を辞めさせるわけにはいかないので、数人の女の子は厚遇したが、そのほかで給料に不満がある子は全部辞めさせて安い給料で雇える新人を大量に入れた。

こんな形でも店はなんとなく儲かっていったが、当然納める税金も多くなった。ある年、納税額を見て「こんなに取られるのか」と声を上げた。「入ってくる金をもう少し減らしてしまおう」。経理担当者に対して自然に命じていた。

次の年からは実際の収入金額を少なくして申告を行うようになった。いわゆる「つまみ申告」だ。女の子への給料も実際に支払ったものより多く計上し、帳簿上には実在しない女の子が増え続けた。こうして手元に残った資金は、店の女の子名義で借りたマンションのクローゼットの中などに隠した。

ただでさえ、税務署からのチェックが厳しいこの業界。新参者で羽振りもよかった自分が見逃されるはずがなかった。ある日突然調査が入り、すべての不正経理が暴かれた。マンションの隠し財産も発見され、多額のペナルティーを科せられた。時を同じくして、看板の女の子たちも引き抜かれ、いまや店は閑古鳥が鳴いている。「おごれるものは久しからず」という言葉が身にしみるこのごろだ。

2010年3月28日日曜日

Vol.28 『譲渡担保で土地売却益隠した』

砂利採取業を営む当社も、ご多分にもれず不況の波に飲み込まれ、所有していた土地を担保に町の金融会社から会社の運転資金を調達せざるを得なかった。毎月の支払いが200万円ものローンを組み、なんとか返済していたが、やはり肝心の砂利が売れず、行き詰まってしまった。そんなとき助けてくれたのが、不動産販売会社の社長で私の学生時代からの友人だった。

ともかく、金融会社へのローンの返済を軽くしたかったため、借入金全額に当る1億5千万円をその友人から借りて、土地に付けられていた抵当権をはずすことにした。その代償として、金融会社の抵当権がついていた当社所有の土地を友人の会社に譲渡担保として提供した。その土地の時価は、当時約5億円。交通量の多い国道に面していたことから、ロードサイドビジネスを展開するファミリーレストランやホームセンターなどから売ってくれ、という引き合いが何回かあったほど立地条件のよい土地だった。

友人も、その立地条件に目をつけたのだろう。譲渡担保を設定して2ヶ月が過ぎた頃、突然「あの土地を高く買い取りたい」と言ってきた。本業の砂利採取業がうまくいかず、運転資金に事欠いていたため、友人からのその申し出に対し二つ返事で答えた。

ただ、1億5千万円の借金の返済だけならば、土地を売って手元に残るお金は約3億5千万円。しかし、当時は、土地の譲渡に対する税金が非常に重くのしかかっていた。

そこで、ひらめいたのが当社の経営建て直しが終わるまで、そのまま譲渡担保として土地の利用を継続していることにすることだった。友人もその案に賛成してくれ、すぐに転売するのではなく、友人の不動産会社が展開する住宅展示場としてしばらく活用するとともに、土地の代金は向こう2年間で支払ってくれた。土地を譲渡担保として提供した形をとると、購入者に引き渡したわけではないから土地の譲渡益を計上しなくても済み、税金を払う必要がない。登記されているわけだから税務署に見つかるわけがないと高をくくっていた。だが、譲渡担保登記の設定から4年後、税務調査が入って、見事にその手口は暴かれてしまった。

税務署は土地の登記だけでなく、銀行口座への入金状況や土地の利用状態も調べていた。いま思い返すと、浅はかな考えだったと深く反省している。

2010年3月27日土曜日

Vol.27 『ラブホテルの日記で足がつき』

恋人たちの憩いの場所を作ろうと、私は数年前からラブホテルの経営を始めました。

今は、お客様の宿泊、滞在記録はすべてコンピュータに登録します。お客様がチェックインをすると同時に、事務所内に置いてあるパソコンに宿泊記録を入力するのです。

ある日、お客様がチェックインして数分後に、急用ができたということでチェックアウトされました。一見して大学生と分かるカップルで、2人は泊まれなくてとても寂しそうでした。気の毒に感じた私は、通常なら絶対しないのですが、このカップルに宿泊代を返金してあげたのです。2人は「ありがとうございます」と丁寧にあいさつをし、ホテルを後にしました。

この一件が、私を脱税に導いてしまったのです。このカップルもチェックインと同時にコンピュータに入力をしているため、普通にチェックアウトすると宿泊金額の1万2千円がマイナスとなってしまいます。そこで、一度コンピュータの宿泊欄に入力した「1(泊)」を、「0(泊)」に訂正してチェックアウトの手続きをしたのですが、この訂正を利用することで脱税ができると考えたのです。

つまり、現金で宿泊料金を支払ったお客様のうちの数組について、チェックイン後に「0(泊)」に訂正し、その金額を隠したのです。だいたい1日3室くらいを「0」泊に訂正していたので、月に100万円近くの売上げを少なく見せることができました。私が経営するホテルは繁華街のど真ん中にあり、平日・休日を問わずほぼ満室状態でしたが、それを隠すために、わざわざ稼動実績を9割程度としたニセ帳簿も作ったのです。

しかし、これも長くは続きませんでした。繁華街のど真ん中という場所柄、税務調査のメスが入りやすいことは予想していたため、それなりに帳簿はしっかりと作り変えていたつもりでした。ですが、思わぬところでバレてしまったのです。

それは、客室に置いてある日記帳。帳簿上、空室となっていたはずの部屋の日記帳に、その日の日付で日記が書かれてあったのです。そこから、コンピュータを操作して稼動をごまかしていることが分かってしまいました。

その日記には、「先日はありがとうございました。急きょ帰らなくてはならない用事ができてしまったのです。直接言うのは少し恥ずかしいので、この日記帳に『ありがとう』と書きました」と書いてあったのです。その日記を読み、自分のしたことが情けなくなりました。

2010年3月26日金曜日

Vol.26 『ソフト開発費を水増し』

「カンベンしてください!もう3日も家に帰ってないんですよ」。社員の悲痛な叫びが胸に迫る。だが、納期はすぐそこ。ここで手綱を緩めるわけにはいかない。自分だって1週間は家に帰っていないどころか、まともな睡眠さえとっていない。極限状態で思ったのは、「身を削り家族を犠牲にしてまでも稼いだ金。みすみす取られるのは惜しい―」。

学生時代からコンピュータが好きだった。卒業後はコンピュータメーカーに入社。7年間しゃかりきに働き、お金を貯めた。会社の仲間や後輩、取引先の社員らとソフトウェア開発の会社を設立した。まず、「売れるもの」を作ることにした。安くて使い勝手のよいソフト。「二番煎じでもパクリでもいい」と社員たちの尻を叩いた。営業面にも力を注いだことで、ある程度の売上げが稼げるようになった。だが、安さだけでは大手に勝てない。今度は専門性を高める必要性が出てきた。

ソフト開発はやはり人材。そう思った私は他社からの「引抜き」に精を出した。もちろん引抜料は安くない。しかし、売れるソフトを出せばすぐにでも元は取れる。ヘッドハンティングにかかったお金以上に働いてもらえばいいわけだから・・・。

自分も社員も馬車馬のように働いた。冒頭のような状況はまさに日常茶飯事といえた。そして、業界ではそこそこのヒットとなる商品も作れるようになり、会社の収益も順調に伸びた。となると当然、納める税金も増えてくる。「何日も徹夜してまで稼いだ金を・・・」。一度惜しく感じてしまうともうどうしようもなかった。先に触れた技術者の引抜きに代表されるように、なにしろソフト開発にはお金がかかる。そこで、架空の開発費をどんどん計上した。

外注先には個人や零細企業が多く、「これならゴマカシが利く」と思い実際の数倍に当たる膨大な外注費を計上。人件費についても引抜料などの名目で水増しし、パートやアルバイトの学生に支払う賃金も帳簿上では実際より多く見せかけた。かなりの益金が消され、納税額は激減した。

だが、おいしいと思えたのはほんの一瞬。ソフト会社における外注費などは当局が最もマークする部分だった。調査に入られると、帳簿はボロボロの状態。「ここまでいい加減なのも珍しい」とまで言われる始末だ。

もともと信用力に乏しい小会社。「脱税」のレッテルを貼られては取引先も手を引かざるを得ない。アッという間に会社は倒産した。「身から出たサビ」の自分は仕方ないにしても、すべてを犠牲にして働いてくれた社員には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

2010年3月25日木曜日

Vol.25 『衣替えシーズンの売上げでバレた』

父親からクリーニング店を受け継いだのは今からちょうど5年前。店舗が郊外の住宅地のど真ん中にあるということで、そこそこ安定した需要がある代わりに大儲けもしない、いわゆる「のんびりペース」の営業をしていた。

だが、3年前ごろから大型マンションが次々に建ち始め、これにともないライバル店も次々と参入。あっという間に同じ町内にクリーニング店が7件もひしめき合う状態になってしまった。「このままでは顧客がどんどん取られてしまう―」。初めて苦境に立たされた私は、生き残りをかけて大胆な差別化作戦に討って出た。

まず夜間営業。ライバル店のほとんどが夜7時までに店を閉めてしまうなか、ウチは夜9時まで営業することにした。これが一人暮らしのサラリーマンやOLにウケ、新たな客層の囲い込みに成功。さらに、革や特殊加工のクリーニングを格安で引き受けてくれる業者と外注契約したり、季節モノを始めとした期間限定サービスをマメに展開したり、早期引き取り客に割引券を配ったりと、きめ細かいサービスを展開。当初は「やりすぎじゃない?」とたしなめていた妻も、面白いように増え続ける売上げ数値を見て、そのうち何も言わなくなった。

売上げ除外を始めたのはこの頃だ。はじめは、外注に出した分の売上げを除外してみた。レザーコートが流行っていたため、これだけでも結構な金額になる。慣れてくると午前中の売上げをすべて除外したり、10件に1件はレジを打たないようにしたりと手口はかなり大胆になっていった。

しかし、付け焼刃の脱税行為は長くは続かなかった。どこで店の評判を聞きつけたのか、ある日突然税務署から「調査に入る」との連絡があった。帳簿・関係書類の体裁には自信があったので、はじめは強気だったが、月別の売上げをチェックしていた調査官が、「春と秋の衣替えの時期に売上げのピークが来ていない」と指摘してきた途端、心臓が凍り付いた。しどろもどろに対応していると、別の調査官が「外注支払台帳と受注台帳を見せてほしい」と言ってきた。「やばい!」。この外注に関する収入はすべて売上げから除外していたのだ。案の定、2、3カ月分をつき合わせただけで、数十件の特殊製品の売上げ除外が見破られた。

これが突破口となり、そのほかもろもろの売上げ除外も発覚。あっという間に私は「脱税犯」になってしまった。税務署は本当に侮れない。悪いことはできないものだ。これが、多額の追徴金と引き換えに学んだ現実だ。

2010年3月24日水曜日

Vol.24 『会社の運転資金がほしくて…』

東京の下町で細々と印刷会社を営む私は、景気の頃、いまのような苦しい経営を強いられることなどまったく予測していなかった。そのため、突然やってきた不況の波を甘く見て、つい軽はずみな行動をとってしまった。

印刷業は、紙と印刷機械さえあれば営業できるというものではない。印刷物のレイアウトを頼まれることもあれば、印刷物の発送まで請け負うこともある。いくつかの専門業者と業務提携していなければ成り立たない仕事なのだ。

そういった専門業者に仕事を依頼する、いわゆる外注費の占める割合は売上げの半分近くを占めることが多い。外注費を少しでも減らしたいが、なにせ専門業者への請負料金の設定はどこも同じで、競合させて安いほうに仕事を任せるというテクニックは通用しなかった。

そこで、不況を乗り越えるために経費削減の筆頭に上がったのが人件費。だが、わが社の場合、重要な作業は機械でこなせるようにしていたため、人は機械の補助的役割をしているにすぎない。そのため、正社員の数は少なくアルバイトの女性が従業員の大半を占めていた。

もちろん、そのアルバイトもギリギリまで減らして人件費の削減に努めたが、一人の仕事量が増えて残業を強いる結果を招いてしまった。残業が増えれば、その分残業代も増えていく。それでは人員削減をやった意味がなくなってしまった。

人件費以外に削減できるコストはないかと考えあぐねた結果、思い付いたのが納める税金を減らすことだった。仕事が減っているから、利益などはスズメの涙。当然、法人税など眼中になく“減税”のターゲットは源泉所得税と消費税に絞られた。消費税を減らす方法としては、売上げ時にかけた消費税から仕入れ時に支払った消費税を差し引く仕入額控除の計算を利用することにした。つまり、外注費を増やして支払う消費税を増やせばいいわけだ。

外注費を増やすのにちょうどよかったのが、アルバイトたちの残業代だ。残業部分の仕事をすべて外注したことにして、アルバイトを従来通り使っていながら帳簿の勘定科目だけをいじって外注工賃を増やした。これにより、年間の源泉所得税を約200万円浮かせることができ、消費税は年間約100万円が益税のような形で会社の運転資金に回せるようになった。

この仕組みを考え出したときには、我ながら感心したものだが、すぐに税務調査で手口が暴かれてしまった。消費税や源泉所得税は、末端の納税者の代わりに会社が税務署へ納めているだけ。それを不正に流用したことに、いまでは後悔ばかりしている。

2010年3月23日火曜日

Vol.23 『客の行列で脱税発覚』

全国の“ご当地ラーメン”を食べ歩き、「日本一おいしいラーメン屋」を作りたいとの夢から、20年間勤めてきた会社を辞めてラーメン屋をオープンしました。しかし、現実はそんなに甘くはなく、自分が考えてきたラーメン作りができずに、店をオープンしてからすぐ閑古鳥がなく始末に―。ひどい時は、1日のお客さんが1ケタ台で、店を開ければかえって赤字がひどくなるといったことも少なくありませんでした。

店をオープンして1年が経っても依然状況は変わらず「そろそろ潮時かな」と考えていたある日、いつものように暇な店内でテレビを見ていると、私と同じような境遇から這い上がろうと頑張っている人の特集をやっていました。私はその姿を見て、初心を忘れていたことに気づいたのです。

私も、ラーメンの食べ歩きをしている時は「お客さんからお金を貰うのに、どうしてこんなに手を抜くのか」と思っていたのです。ところが、いざ、自分がラーメン屋を開くと、その努力を怠っていたのです。そのことに気付いてから、私は寝る間を惜しんで毎日ラーメン作りに没頭しました。成果は徐々に現れ、1日10人程度だったお客さんは、50人、70人と増え、ついには100人を超えて店の前に長い行列ができるほどの大人気の店へと成長しました。

やはり、一番混むのは昼時です。ある日、食べ終わったお客さんが会計してレシートを出そうとしたとき、「いいよ、混んでるからレシートいらないよ」と言われたのです。それを聞いていた次のお客さんも、またその次のお客さんも「(レシートは)要らないよ」と言うのです。店を閉めてその日の店の売上げを計算している時、「これからは言われたらレシートを出せばいいや」と思い、このレシートが少なければ売上を少なく計上できるのでは―と考えたのです。

翌日からすぐに実行しました。昼時のお客さんの多くは案の定「レシート下さい」とは言いません。そこで2重帳簿を作り、税務署にはもちろん少ない売上げで申告していました。

しかし、それも長くは続きませんでした。昼時の超混雑が過ぎ、店が一段落したころ税務署がいきなり店に現れたのです。「連日、行列ができているラーメン店で、売上げがこれだけのはずがない」と指摘され、もともと、思いつきでやった脱税であるため、すぐに白状してしまいました。

サラリーマンを脱することで始めた事業が、税を脱することにつながってしまい、「何時も初心わするべからず」と反省している毎日です。

2010年3月22日月曜日

Vol.22 『成功した脱サラで気が大きく…』

「盛者必衰」という言葉がある。確か平家物語の一節だ。栄華を極めたら後は落ちるだけ―。なるほど人生の真理を言い当てているようだ。

5年前。中年を前にした私の人生計画は、都内にマイホームを持ち、子供たちに十分な教育機会を与え、年金に頼らず老後生活を送れるだけの投資をすることだった。脱サラして事業を始めたのも、サラリーマンのままではプランを実現するだけの収入が得られなかったからだ。

手掛けた事業は海外医薬品の個人輸入代行業。これといった人脈も資金もなかった私には、このようなゲリラ的な仕事からスタートするしかなかった。幸いサラリーマン時代に海外業者との折衡を担当していたので英語には自信があったし、パソコンもFAXも持っていたので、脱サラしてから一カ月も経たずに事業を開始できた。

通信、広告の費用で月次決算が赤字になったときは青くなったが、まもなくアッという間に黒字に転じた。アメリカで発売がはじまったED改善薬が人気となり一気に業績は上向きに。

その後は面白いように注文が相次いだ。あまりに注文が多くなってきたので、これまで家事に専念させてきた妻にも電話番と台帳記入をさせたほどだ。月次決算はすぐに黒字になり、手元にはばく大な利益が転がっていた。

インターネットで申し込みのあった顧客からの輸入代行手数料を、息子名義の口座に振込ませたのは翌月からだ。銀行からの借入れもなく、初期投資もなく、経費自体も広告宣伝費と通信費くらいしかない会社で、私の人生計画を実現するだけの資金を生み出すためには、利益の大半を納税するわけにはいかなかったのだ。こうして息子名義の普通口座には、ほどなくして数千万円を超える簿外資金が眠ることになった。息子に私立幼稚園の“お受験”を経験させ、都内マンションのカタログを取り寄せたのもこのころだ。

あと1年、簿外資金を貯めることができれば、私の人生計画を達成するための資金が集まるはずだった。その時点で、こんな綱渡りは止めるつもりだった。しかし、税務署は甘くなかった。

個人輸入代行業の不正手口はパターン化しているらしく、息子名義の預金口座に隠し持っていた手数料収入はあっけなく発覚。所得の仮装隠ぺいを指摘、重加算税を賦課された。修正申告をした後、手元に残ったのは借金とパソコンとFAXだけ。妻子は実家に行ってしまった。慎ましい栄華を夢見ていたが、不正で手に入れたものへの罰と代償はあまりに大きかった。

2010年3月21日日曜日

Vol.21 『几帳面な社員の日誌が…』

いささか古い話になるが、私の人生が変わったのはバブルの頃。私は不動産会社を営んでいたが、景気の波に乗り、契約はバンバン取れた。売上げは10倍になり年商20億円へと急成長していった。

当時の不動産業界人は「豪邸」に「外車」は当たり前。それに、金さえあれば女なんていくらでも寄ってきた。数いる愛人の1人には、高級マンションを与えベンツも買ってやった。私は女をモノにするためなら金に糸目は付けない。だが、色気もない国に税金を払うのは寒気がした。理由は単純明快。「見返りがないから」。そして、私の脱税生活が始まった。

まずは、赤字で無申告のダミー会社数社から次々に土地を売買することから始めた。最終的に高く買入れ、利益が少なかったことにして、ニセの契約書を作り所得を圧縮。また、売買契約が中途で解約されたことにして、架空の契約違約金を計上しウソの経費をでっち上げた。

払わなければならない税金で銀座の高級クラブをハシゴした朝、税務調査官が私のところにやってきた。コワモテの方々とも対等に渡り合った私なので、調査官の顔を見ても余裕綽々。営業スマイルで奴らを事務所の中に招き入れてやった。

静かに入ってきた調査官は不動産取引台帳を取り出し、個々の不動産の物件説明書を手に取った。私は嫌な予感がした。その説明書には売買契約書のほかに不動産の図面や登記簿謄本などの一連の資料が詰まっている。何か取り返しのつかないミスをしているのではないか。気持ちを落ち着かせるためにいつも吸っているマルボロに火を付けた。

ほかの机では違う調査官が不動産の仲介実績と大学ノートを付き合せていたが、そのノートが営業日誌と分かった瞬間、私は1人の営業マンを呪いたくなった。筆まめなアイツは日誌を欠かさずに書いている。このままでは実績との矛盾を責められてしまう。

言い訳を考えていると、売買契約書と登記簿謄本とを付き合わせていた調査官の動きがパタッと止まった。予感は的中。縄延び部分を別途で精算していたが、計上していないのがバレてしまったのだ。一部にほころびが生じると、後は音を立てて崩れていった。架空取引をはじめとする数々の脱税行為が次々に発覚。私は敗北せざるを得なかった。

その後、当然といえば当然だが、金銭感覚は通常に戻った。あの調査を境に私は脱税生活に終わりを告げたが、金の切れ目は縁の切れ目。愛した女たちの姿を二度と見ることはなかった。

2010年3月20日土曜日

Vol.20 『“ドンブリ勘定”で工事』

「○×建設、やっぱりつぶれちゃったね…」。街角での世間話を聞いた。経済不況は中小建設業を直撃している。数年前までは自分もその経営者だったが、倒産の憂き目に遭い、今は無職の身だ。「あの“脱税”が曲がり角だった…」とひとりつぶやく。

どこでもお金が余っていた。あるブティックホテルの新装工事を頼まれたとき、依頼主はこう言った。「いくらかかってもいい」。お金を大量に使うのには使う側にも理由があるのだろう。こっちもそれは心得ている。工事原価は抑えながら、見積りはまさにドンブリ勘定だ。「ここで1千万円、あそこで800万円…」。相場なんてあってないようなもの。細かな計算には興味もないのだろう。ろくに確かめもせず、依頼主はOKを出す。当時はウチだけではなかったのだろうが、こんな内容の仕事がひっきりなしに入った。とくに“実入り”が良かったのは、こうしたブティックホテルやパチンコ店など外装がにぎやかな建物。依頼主のオーナーも羽振りの良い人間がほとんど。どんな儲け方をしたのかは分からないが、お金も「ポン」と支払われた。

ほとんど言い値で決まる工事費。会社が儲からないはずはない。となると、税金も多くなる。「俺が稼いだ金だ。誰にもやるもんか」。耳元で悪魔がささやいた。

売上げに対して、あまりに少なすぎる工事原価。まず、ここを膨らませることにした。買っていないセメントや工具といった原材料を大量に「架空計上」。映画さながらに、証拠の品を隠す地下室なども造った。建設業だけにその辺はお手のものだ。

税務調査対策として、経理担当者には別に帳簿を作らせた。若い経理担当者はやや困った顔をしながらも、「自分が前にいた大手企業でも似たようなことはやっていました」と言いながら指示に従った。その言葉が私を楽にした。「大手でもやっていることなら、こんな小さなところまで税務署は調べに来ないだろう」。

しかし、“鬼”はやって来た。依頼主のひとりであったパチンコ店のオーナーが申告もれを指摘され、その調査上でウチの会社の名前が浮かび、「怪しいので調査を」ということになったようだ。小さいとはいえ、やはり建設業。当局からのマークは甘くなかったわけだ。

ごっそりと重加算税を取られ、脱税会社のレッテルを貼られた。会社の営業上、ダーティーなイメージは大きな痛手となった。そこに押し寄せたバブル崩壊の波を受け、会社はひとたまりもなくつぶれた。

工事したパチンコ店がいまや廃墟状態になっているのを見ると、自分を重ね合わせながら寂しくなる。

2010年3月19日金曜日

Vol.19 『CM海外ロケと偽って―』

テレビCMの製作は海外ロケが多い。商品イメージを分かりやすく伝えるためだ。その海外ロケを、個人的な楽しみのために利用してしまったのが悲劇の始まりだ…。

大手広告代理店で次々にヒットCMの企画を立てていた私が、独立して小さな広告製作会社を構えて10年。開業当初はとにかく仕事が欲しかったので、CMだけでなく新聞広告やポスター、チラシ、パンフレットなど、幅広く仕事を受けていた。そのため、社員も20人と多く人件費が売上げを圧迫していたが、受注を見入りのいいCM企画制作およびその付随広告に絞り込み、社員も10人に削減すると利益率は面白いぐらいにアップした。

海外ロケの場合、どうしてもその仕事にかかりきりになってしまう。しかも、以前はロケの前には必ず担当者が現地に飛び、打ち合わせ兼下見をしなければならなかった。しかし、最近はインターネット、メールや電話などで打ち合わせを済ませ、下見も現地コーディネーターに安価で頼めるようになった。仕事の効率はグッと上がり、売上げも倍増。同時に当初の緊張感は薄れ、少しずつ気が緩みはじめた。

ある時、家族旅行でハワイに行った後、たまたまハワイロケを条件とするCMの仕事が入った。売上げが出過ぎて税金対策を考えていた私は、家族旅行の費用をロケの事前打ち合わせ費用と装い会社の経費に乗せてしまった。ほんの出来心だった。実際に出費があるため、「脱税」という意識はなかった。以後、海外ロケの仕事が入るたびに、会社のお金で「事前打ち合わせ」と称する家族旅行に行くようになった。慣れてくると社員の名前を使い、領収書類を偽造して架空の海外出張をデッチアゲるようになった。カラ出張。犯罪の域に達していることを感じながらも海外ロケの3回に1回は家族旅行、2回はカラ主張のペースが定着した。

同規模の同業他社と比較して必要経費が高すぎたのだろうか、ある日突然、税務署の調査官がやって来た。調査官は、帳票類を丹念にチェック。領収書類が完璧にそろっていることでどこか楽観視していたが、調査官にタイムカードを見せてくれと言われたとき、心臓が凍り付いた。そこまでは気が回らなかったのだ。事前打ち合わせのために海外に行っているハズの社員のタイムカードが押されている―。言い訳のしようがなかった。これが糸口となり、事前打ち合わせと称した家族旅行もすべて発覚。過去数年間に及ぶ経費水増しは白日の下にさらされ、重加算税をかけられてしまった。会社設立10年の実績はパー。もう二度とこんな馬鹿な真似はすまいと心に誓ったが後の祭りだ。

2010年3月18日木曜日

Vol.18 『刑務所で学んだのに…』

もう二度と悪いことはしないと決心したのに…。私は、商業高校卒業後、簿記の能力を生かし、東京の中堅企業の経理として約8年間働いていた。

ところが、風俗にはまり、魔が差して会社の金を横領してしまった。会社はクビ、その当時結婚を約束していた女性にもフラれ、挙句の果てには、横領金が返済できずに会社側が告訴し、有罪判決、そして刑務所へと転落の人生へ。

そこでは、もう二度とこんなところには入るまいと誓った。出所後、しばらくたって、刑務所の同房者と道端でバッタリ。ムショ時代では、風俗の話をして気を紛らわせていた仲だった。そんなAが私に、「風俗店を開くから一緒にせえへんか」と声をかけてくれた。出所後、アルバイトで生計を立てていた私にとってはありがたい一言だった。

そして、二人でイメクラを経営した。折しも、コスプレブームから店は連日大繁盛。2号店を出店する勢いに。

そんなとき、Aから「この商売ぼろいな。でも、税金がこんなぎょうさんとられて、ホンマ腹立つわ。税務署もしょせん役所。縦割りやから1号店とは管轄が違う場所に2号店を置けば、売上除外で浮かせたカネを2号店に回しても大丈夫や」とそそのかされ、管轄地域の異なる場所に2号店を出店した。

案の定、その後はなんの問題もなく売上げは伸び続けた。一方で、両店舗の売上金の一部を除外。その金は簿外の普通預金に入れ、事業拡大資金として、私個人からの借入金に見せかけ、まだまだテコ入れが必要な2号店に戻し入れていた。そして、申告は赤字に―。

そんなある日、「国税庁が広域化に対応」というニュースを耳にした。「広域化」というコトバがなんとなく気になりながら、数カ月が経過した。「まさか自分たちには関係あるまい」とたかをくくっていたある日、いつものようにお客さんと話をしていたら、突然、1号店を管轄している税務署の調査官がきた。しかも、2号店の情報を持って。

「やっぱりバレたか…」。1号店の売上げが、ある時期を境に減少していることや、2号店への軍資金の出所などがマークされ、調査対象に選定されたようだ。税務署は入念な準備をしており、私や友人、店に関する多くの資料を持っている様子。私はスグに白旗を揚げ、洗いざらい白状した。後で聞いた話では、国税庁が広域調査に乗り出したちょうどその時期、税務署では風俗店への調査を強化していたらしい。

その後、Aとはけんか別れ。店もブームが過ぎ、今は本当の借金だけが残っている。

2010年3月17日水曜日

Vol.17 『“脱税仲間”が逮捕され…』

私はいま少々おびえている。税務調査官は、いつ私のオフィスに来るのだろうか…。

私が税務署の目を気にするようになったきっかけは、関西で同じ仕事をしているある会社が脱税を指摘されたことにある。その会社の経営者とは仕入先などで顔を合わせることが多く、彼が東京に来たときには、よく赤坂に繰り出したものだった。

私が経営している会社は、パソコン関連部品の卸会社だ。台湾などから安いメモリーやグラフィックカード、ハードディスクを買い付け、これを秋葉原や日本橋の販売店に卸す。創業した10年前は細々とした商売だった。海外企業との交渉も、創業間際で信用がなかったことや私自身の英語の拙さから、失敗したことも多かった。しかし、地道に営業を続けていくなかで台湾と韓国の大手メーカーとの契約も成功。過去のインターネットブームのときには、大手メーカーとのパイプを持つウチの会社だけが、国内で品薄のメモリーを順調に供給することができた。おかげで随分稼いだものだ。

稼ぎが増えたら申告を少々ごまかすということは、経営者なら誰もが一度は考えるだろう。私も同様だったが、小心者なので“過少申告”といっても大した額を除外したわけではなかった。多分、近所の八百屋や喫茶店がやっている過少申告よりも少額だったはずだ。実際、一度調査に入られたことはあったが、いくつか注意されただけで問題はなかった。

しかし、一度調査の“洗礼”を受けたことで気が大きくなり、過少申告のやり方も大胆になった。台湾の小口取引先に対する売上の一部や技術指導料を除外。除外資金を個人名義の預金にプールしておくようになった。ただ、周りの目と税務署を気にして、車の買い替えや飲みに行く回数など、目に見える生活レベルの変化には細心の注意を払った。

冒頭で紹介した経営者と知り合ったのは5年前。以後、幾度か杯を交しているうちに、「稼ぎの4割が税金に消える悲哀」の話で盛り上がったときのこと。酔いも手伝って、私がやっている過少申告のノウハウを事細かに話し聞かせたのだ。彼がしきりに感心していたので気分が良かった。

あの日から3年…。彼は悪質な脱税を行った経営者として、司直の手にかかってしまった。裁判で傍聴したときに知った“脱税”のスキームは、私の会社で行っているものとまったく同じだった。ただ、彼の場合は金額が私の10倍ほど大きかっただけだ。

結局、私のしていたことは過少申告ではなく脱税だったのだ。翌日、私は税理士に相談し、すぐに過少申告スキームを改めた。

2010年3月16日火曜日

Vol.16 『納税しないことが貯蓄の近道』

医療保健の改革により、患者が負担する治療代はますます重いものになってきた。「病気をしないことが貯蓄につながる」とさえ言われるようになったが、わたしが経営している接骨院は毎日患者でにぎわっていた。

私は専門学校を卒業と同時に免許を取得し接骨院経営を目指した。知り合いの接骨院で7年間修行した後、独立開業した。私のポリシーは、「患者さんとの会話を大切にすること」。一人ひとりとよく話し、患者に会った治療法を施した。

スポーツ部に入っている学生がケガをしたときにはテーピングを使った治療を行うのだが、試合前の学生は痛さを我慢してしまう。そのため、「今のまま試合に出て、大人になってから患部がもっと痛くなるのとどっちがいい?」と聞き、その場限りの治療ではなく、子供の将来を考えて試合を断念させたこともあった。

患者一人ひとりに合った治療法は口コミで広がり、学生の親や祖父母たちも来るようになった。お年寄りなどには、手によるマッサージ治療が人気だった。しゃべることがリラックスにもつながることから、治療や健康相談だけではなく嫁姑問題の相談にも乗ってあげた。私は元来、話好きなことから患者さんとのおしゃべりは大歓迎だった。

ところがある日、いつも来てくれていたおばあさんの一言が私の人生を変えた。「お金ためてる?。年金暮らしは大変よ」。私は急に老後が不安になり、貯金を増やそうと一番やってはいけないことを思いついた。それが「脱税」。

まず、接骨院で売っていた包帯やテーピング、絆創膏、腰などにつけるコルセットなどの売上げを帳簿から省くことから始めた。次に、スタッフを雇うために求人をかけていたが、面接で落とした人までも架空に採用し、パートで働いている受付嬢からの脱税の申し出も断らなかった。新妻の彼女は、給与収入が一定金額以上になると扶養控除の対象から外れてしまう。そこで、帳簿上の数字を操作して欲しいと頼まれていたのだが、私にとっても減額した分だけ源泉所得税が免れるため異存はなかった。

「納税しないことが貯蓄につながる」との考えから目の色変えて脱税に走ったわけだが、はやっているわりには売上が少ないことに目をつけた税務署が調査に入り、いとも簡単に脱税の手口を見破ってしまった。

この一件によって、貯金はおろか信用もがた落ちになり、にぎわっていた待合室は閑古鳥が鳴いている状態。今さら悔やんでも悔やみきれず、本当にバカなことをしたと思っている。

2010年3月15日月曜日

Vol.15 『脱税する妻、夫はそれを許した』

脱税は犯罪。それは分かっている。だが、喫茶店のオーナーである私は手を汚した。正確には、妻の不正経理を私は見て見ぬフリをしていた。

保険会社で働いていた私が脱サラしたのは11年前のこと。貯金や退職金を元手に喫茶店を開くことが目的だった。老若男女、誰もがくつろげる喫茶店をつくりたい。そして、子供ができないことを一人で悩んでいた妻に、喫茶店で働き多くの人と接することで、新たな喜びを感じて欲しかった。

私は、某老舗喫茶店の準フランチャイズに加盟した。そして、高級住宅地であり学生街でもある街を物色。ライバルになるような店もなかったため、早速、そのエリアの空き物件で営業することにした。内装およびテーブルやイスは高級感を重視。メニューには老舗喫茶店にはないパスタやグラタンなど若者向けのモノをラインアップした。

不安を抱きつつ迎えたオープン当日。店は若者やサラリーマン、老人や子供が入り交じって大盛況だった。客の反応も上々。スタッフもイキイキと働いていた。なによりホッとしたのは、妻の顔に笑顔が戻ったこと。客と接しスタッフと話している妻は、結婚当初の明るさが戻っている。私はこの店で頑張ることを心に誓った。

私の店は繁盛した。ファーストフード店が進出し、またカフェブームが到来しても、売上げに大きな変化はなかった。ただ、私や妻の優しい性格が災いしてか、スタッフのやる気がみるみる失せていく。妻に聞くと、私が店にいないときは、焦げたピザや油まみれのパスタを平気で客に出したこともあったという。

妻が不正経理を始めたのはちょうどそのころ。架空のタイムカードを作成し、学生アルバイトを実際よりも多く雇ったように見せかけて人件費を水増しした。食材の仕入費についても、業者が発行した伝票を捨てて自分で伝票を作り、課税所得の圧縮を図った。社員へのボーナス支給額は、帳簿上では3倍になっていた。

私は何度か妻を注意した。だが、そのたびに妻は、「ただでさえ利益が薄いのに、そこから税金を引かれたらたまらないわ」と言った。脱税は儲けている会社がやるものだと思っていた私。妻の言葉を聞いても不思議と悪意は感じなかった。後々妻は、スタッフの給料を上げ、やる気を取り戻そうとしていたらしい。私は結局、そんな妻を止めることはできなかった。

とはいえ、犯罪は犯罪。妻の脱税行為は調査官の手によって簡単に発覚。私の店は重加算税の対象となった。妻は落ち込んだが、私はもう良心の呵責にさいなまれることはない。どこか救われる思いだった。ただ、いまは罪を償うとともに、今度こそ妻が元気になることを祈るばかりだ。

2010年3月14日日曜日

Vol.14 『無垢な園児を喰いモノに』

実は、子供や教育が好きだったわけではない。ただ、親が残してくれた土地や財産をどれだけ着実に、しかも楽に運用していけるかを考えていた。

「保育園なんかどうだろう」。知り合いの経営コンサルタントから紹介されたのがきっかけだ。最初は面倒そうだったが、アドバイスを聞きながら設備や人材を用意した。そして、地方自治体から許可をもらい、保育園は意外と簡単に立ち上がった。信念も苦労もなく運営をスタートできてしまったのが、今考えれば間違いの始まりといえた。

自分は「理事長」となり、保育園は順調だった。自治体からは補助金を得られ、ある程度入園者も集まる。当初、経営や教育、福祉といった事業に関しても素人であった私は、コンサルタントや事務職員にすべて任せきりにしていた。だが、そのうち近隣に大規模な団地が造営され、入園者がどんどん増加していくと少し色気が出てきた。「もっと儲かる方法があるんじゃないのか」―。

とにかく入園希望者が多かった。施設を増築したが追い付かない。それに、自治体からの許可の関係上、あまり無理には施設が拡充できないという理由もあった。だが、定員の何倍も集まってくる希望者を見ると、惜しい気もしてきた。少しぐらい園児の数が多くても…。

そこで、決められた定員以上の園児を「私的契約」という形で入園させた。この私的契約園児については、運営の計算上、表沙汰には出来ない。集めた保育料は帳簿から当然除外。その金は理事長名義の銀行口座に預金し、そのまま私の自由になった。あっという間に車に、酒に、女に、ギャンブルにと消えていった。こうしたぜいたくの味は、一度覚えると忘れられなくなる。その後、いつの間にか私的契約の保育料の除外だけでなく、架空経費も計上するようになっていた。

こうしたことがいつまでも続くはずがなかった。保育園の駐車場に高価な外車が何台も置いてあることは、近所で評判となっていたらしい。新聞や雑誌において、保育園を始めとした公益法人の経営のあり方が問題視され始めていたこともあったのだろう。ある日突然、税務署から調査が入ったのだ。

調査の結果は明白だった。私が理事長名で個人的に蓄財し、遊興費などに当てていた金額は給与とみなされ、重加算税を含めて追徴された。時を同じくして、入園者の数も減り始めた。少子化の影響もあったのだろうが、幼稚園も近くにつくられ競争が激しくなるなか、脱税に精を出しながら、なんの経営努力もしていなかったツケが回ってきたようだ。

2010年3月13日土曜日

Vol.13 『ハワイ土産がビジネスに発展』

ハワイ好きの私は毎年最低1回はハワイに行く。ハワイといえば光る海、輝く空、そしてハワイアンジュエリー。今でこそ簡単に手に入るようになったが、あのころはまだ日本では目新しかった。親友に初めてハワイアンジュエリーを土産として買ったとき、予想以上に喜ばれたため、その後はハワイに行くたびに違うタイプのものを買って帰るようになった。

あるとき、多めに買い過ぎて余ってしまったハワイアンジュエリーを、ダメもとでインターネット上で売りに出してみた。すると、来るわ来るわ、問合わせメールが。「これを商売にしよう」と考えたのはこのときだ。今の時代は、充分な資金がなくても、インターネット上で手軽に自分の店が持てる。さっそくホームページを開設した。

最初は楽しくて仕方なかった。自分が選んで買ってきた商品を見ず知らずの人が喜んで買ってくれる。それが嬉しくて、注文があるたびに丁寧にラッピングし、直筆の挨拶状を添えて発送した。そんな細かい気配りと品質のよさが口コミで伝わり、いつしか雑誌に取り上げられるまでに。雑誌の宣伝効果は大変なものだった。問合わせメールは1日平均で100件以上。アレよアレよといううちに、顧客リストは300件を突破した。

これに味をしめた私は、思い当たるほとんどの雑誌に派手な広告を出し、宣伝活動に力を入れるようになった。同時に「セット割引」や「ポイントサービス」などを試験的に導入。これがまた顧客心理をガッチリつかんで、売上げは面白いくらいに伸びていった。

売上げを少しずつごまかし始めたのはこのころだ。最初は、銀行口座への振り込み分だけを申告し、たまに発生する現金書留による入金を除外した。そのうち、売上げの10%を毎月除外するようになり、この割合は15%、20%、30%と徐々に増加。除外した金額は複数の架空名義の銀行口座に分散預金し、そのカネでせっせと「仕入れ」のためにハワイに通った。もちろん、「仕入れ原価」には正規の航空運賃を記載して、笑いが止まらなかった。

しかし、こんなウマイ話が長く続くワケがない。ある日突然、税務署から「申告内容に関する問合わせ」が来た。あたふたしているウチに調査官がやってきて、帳簿や領収書リストをチェックされ、一連の書類と一緒の袋に入れておいた架空名義の貯金通帳まで見つかってしまった。今思えば、あれだけ派手な広告展開をしていれば税務署が目を付けるハズである。こんなことなら、キチンと税金を払っておけばよかった。「地道が一番」ということをつくづく思い知らされた。

2010年3月12日金曜日

Vol.12 『病院の儲けに手をつけてしまった』

実弟の病院の経理を手伝うようになって10年が経つが、バブル崩壊後、住民の医療環境改善のため市が音頭を取って近所に総合病院を建設、その影響で実弟の病院は徐々に患者数が減り、収益も急激に落ち込んだものだ。

病院経営はほかの産業よりも恵まれていると思われがち。だが、医療機器への投資額が大きく、医師や看護婦などの専門職に支払う人件費はとてつもなく高い。競合する病院の出現で廃業に追い込まれる病院も少なくない。

実弟の病院もその例外ではなかった。病院収入のほとんどが社会保険診療収入で占められていた。しかし、その保険診療を受ける患者が、総合病院にごっそりと取られたことから、一時は入院病棟を閉鎖するとともに、看護婦もすべてパートに切り替えて急場をしのいだ。

私は、金儲け主義を否定して、ひたすら弱者のために医師として治療に専念する弟をなんとか説得し、若者の心を引きつけて病院経営の活性化を図ることに力を注いだ。

まず、医療相談日と題し、思春期の子供たち向けに登校拒否や引きこもり、性病などについて医師の弟にカウンセリングをやらせた。さらに、新たにレーザー治療器をリースし、美容整形に着手、ニキビやシミ、ホクロなどの治療をはじめたところ、予想外の好評を得て患者層は一変、平日の午後5時を過ぎると、高校生だけでなく若いOLやサラリーマンで待合室はごった返すようになった。

医療相談収入とレーザー治療収入は見る見るうちに増え、バブル経済のころを再燃するかのような勢いで病院は大繁盛した。そのとき私がふと思ったのが、「病院経営を立て直したのは弟ではない、私だ。弟や看護婦に支払う人件費は仕方ないとしても、残ったお金は私のものにしたい」ということだった。

そこで、障害になったのが税金だ。病院の収入益が半分近くに減ってしまう税金をなんとか逃れたいと思い、たまたま医療相談とレーザー治療が保険診療対象外だったことから、保険診療でカルテのある患者を除外するなどして収益を隠ぺいし、脱税に走ってしまった。税務署には、医療相談日の患者数から除外した数がバレたわけだが、今では本当にみっともないことをしてしまったと後悔している。

2010年3月11日木曜日

Vol.11 『脱税がバレて夜逃げ…』

ワンルームマンションの一室に1台のパソコン。これがいまの私のオフィスだ。月給は20万円そこそこ。一昔前の生活では、一晩の飲み代にもならなかった金額だ。

10年前。私はテレビゲーム業界で中堅のメーカーの社長だった。それ以前のファミコンブームのときに、プログラマー2人と起業した会社だ。当初は、大手メーカーが発売するゲームの開発の下請けを手がけていたが、同時に自社製品の開発も進めていた。

起業2年目。満を持して発売したゲームが大ヒット。これで会社の経営が軌道に乗った。今思えばブームの後押しもあったのだろう。開発したゲームはことごとく当たり、日銭で数百万円が転がり込むことが珍しくなくなっていた。開発業務の打ち上げや取次店への接待で銀座に繰り出し、一晩で数十万円使うことは、寝起きにインスタントコーヒーを飲むくらいあたりまえのことになっていた。

起業4年目。思ったことが何もかも実現していたころ。経理から提示された書類を見たときに叫んだことは、今でも鮮明に覚えている。「なんでこんなにむしり取られなきゃならないんだ?」。

当時のゲームはハードの性能が低かったため、ソフトの開発費も安く、尋常ではないほどの収益を上げていた。決算を元に正直に申告した結果、課税金額は天文学的なものとなった。

起業5年目。私は所得隠しの計画を練り、実行に移した。具体的には、多角的な経営を進めることで単体の会社をグループ法人化し、グループ内で連携して所得隠しをするというものだ。私の指示のもと、グループ各社が売上の一部を除外。これを私の家族名義(役員)の普通預金にプールしたあと、その一部を「各社の事業拡大資金」として各代表者からの借入金に仮装して還流しつつ、一部を個人的に流用する形を取った。売上除外しているグループ会社を複数の国税局管内に設置したので、簡単にはバレないはずと考えて実行した計画だ。

起業7年目。私の所得隠しスキームは、アッサリと当局にバレてしまった。幸い刑事告訴までには至らなかったが、この件で会社の信用をなくし、ゲーム開発のスポンサーも次々と去っていった。起死回生の一手だったはずのオリジナルゲームも、思ったほど売れず、開発費用すら回収できなかった。それから1年後、私は夜逃げした。

あれから10年。住む場所と名字を変え、いまは携帯電話のコンテンツ開発を手がけている。いつかまた、新たな所得隠しの計画を練らずにいられなくなるような成功を夢見て。

2010年3月10日水曜日

Vol.10 『パティシエが見た甘い夢』

小学生の時の夢はケーキ屋になること。菓子職人を指す「パティシエ」という呼び名が輸入されるずっと前の話だ。幼いころに食べた甘いケーキは、私に夢を与えてくれた。しかし、現実はそんなに“甘い”ものではなかった。

夢を実現させるために製菓専門学校に入学。卒業後は、腕に磨きをかけるために海外で修行することにした。海外での修行は、正直つらかった。言葉も分からず、初めのうちは料理場にさえ入らせてもらえない。ひたすらトイレ掃除をする毎日だった。

しかし、ほかのパティシエたちが帰ったあとにこっそり味や技を盗み、ようやく店の中でも一人前として認められるようになった。数年後には国際的製菓コンクールで入賞。フランスで、再び有名なパティシエのもとで修行を始めた。

すべての技術を身につけた私は、自分の店を開くために帰国。日本で店を構えたものの、フランスで作ったケーキと帰国後に作ったケーキでは味が違う。フランスと日本の素材が、まったく違っていたのだ。

私は納得のいくものを作るためにヨーロッパに出かけ、優れた材料を直輸入することに。こうして、素材を生かして作ったケーキは、女性客の心を虜にした。

雑誌などでも紹介され、徐々に知名度も上がり始めたころ、海外修行時に苦労をともにしていたパティシエから「脱税の手口」を聞いてしまった。実は私も、税金を適当にごまかして、浮いたおカネで海外の優れた素材を集めたかった。私の店は素材が勝負。もっと夢のあるケーキを作りたかったのだ。

そこで、雑誌やテレビなどでもらった報酬を、店名義ではなく私個人名義の口座に振込んでもらい、申告しないことにした。毎年恒例にしていたクリスマスケーキの予約注文の売上を帳簿から省き、直輸入していた素材の仕入金額を水増しした。店で売っているお菓子の作り方を教える菓子教室も開講していたが、その1人あたりの授業料を半額しか帳簿につけないようにした。

しかし、こんな経理管理がバレるのも時間の問題。ある日、私の店に税務職員がやってきた。このケーキ業界は成功する人としない人との差が大きい。発覚したのは同業者のねたみからだったのか、税務職員は帳簿を調べあまりにもズサンな経理を指摘。結局、私の脱税はバレてしまった。

女性客の心を捕えたケーキ。しかし、その甘さは脱税を考えたことで苦さへと変わってしまった。いまでも悔まれてならない。

2010年3月9日火曜日

Vol.9 『金欲に溺れた“聖職者”』

教育への情熱は誰にも負けない、そう思っていた。だからこそ、機械的な教え方しか認められない公立校の教師を辞め、学習塾を開いた。民間企業でそこそこの役職に就いていた大学の同級生が好景気をおう歌する姿を横目で見ながら、「独立すればいまよりちょっとはぜいたくできるかな」という気持ちもあった。だが、少なくても当時、私はまだ「教育者」のつもりだった。

少子化の時代といわれるなか、それほどの期待はしていなかったが、20年以上に及ぶ教師生活をフルに生かし、一生懸命に、厳しくも丁寧に勉強を教えた。入塾した生徒がたまたまよかったこともあるのかもしれない。一期生から有名高校への合格者が数多く出た。さらに、二期生でその数が増えた。塾の評判は高まり、入塾希望者が殺到した。だが、自分一人で教えるには限度がある。仕方なく学校成績やテストで入塾基準を厳しくした。

ところが、「なかなか入れない塾」として逆に遠方からも希望者が出始めた。そこで、かつての教え子の大学生や教師時代の同僚に手を借りて、本格的な事業経営に乗り出した。こうなると、自分は教壇に立つ場合ではない。いつの間にか、“教育者”ではなく“経営者”の顔に変わった。収入が増えるにつれ、どのように儲けるかというだけではなく、どのようにすれば税金をごまかせるかといったことで頭がいっぱいになっていた。

生徒数は数百人と膨れ上がっていたが、それでも希望者の4分の3は入塾試験で落としていた。当初は無料だったこの試験を経費のため有料化していたが、落ちた受験者の試験料をすべて記帳から外した。定員が30人ほどの教室に40人以上を詰め込むといった状態だったのを逆手に取って、全体の生徒数を3~4割少なくして授業料を計算し、申告していた。こうした行為は数年続き、いつしか年間1千万円以上の税金をごまかした。

ここまでくると「ちょっとしたぜいたく」では済まなくなるのが人間だ。服も車も飲む酒も全てが変わった。教師時代とは逆に、同級生のほうがせん望の眼差しで自分を見ているのが分かった。

しかし、夢はそう長くは続かなかない。ある日突然、国税局による調査が入った。申告している収入にそぐわない羽振りの良さがにらまれた要因のひとつ。イスや机が増えつづけているにもかかわらず、生徒数が少ないことなども「不自然」とみなされたようだ。

神聖であると信じ、勤しんできた教育の現場。明るみになって初めて、自分自身が罪で汚してしまったことを痛切に悔んでいる。

2010年3月8日月曜日

Vol.8 『時効』の誘惑に魅せられて…

「税金の時効は7年―」。すべての始まりは、某経済紙に載っていた小さな記事の一節だった。あのとき、あの雑誌を手に取らなければ、あるいは人生も狂わなかったかもしれない…。

あのころ、私は資産をどうやって一人息子に残そうかと悩んでいた。先祖代々引き継がれている郊外の土地は、時価が下落するなかにあっても、繁華街に程近く交通に便利という強みから、そこそこの評価を得ていた。法定相続人が少ないため、順当に相続したら相当な相続税がかかってしまう。そのため生前贈与を考えたが、現金の贈与ならともかく、不動産贈与となると贈与税を払う原資がない。高率な贈与税はかえって負担が大きく、いまひとつ具体的に動き出せないでいた。そんなときに目にとまったのが、時間つぶしに何気なく手にとった某経済紙の冒頭の一文だった。

税金の時効は7年―。この間、無申告がバレなければよいのだ。生前贈与の事実が税務署にバレないためには、どうしたらいいだろう。そうだ、いいことを思い付いた―。

私は、「○×町の土地を息子に贈与する」という内容の贈与契約書を作成し、公証人役場に行ってこれを公正証書にしてもらった。公証人という“証人のプロ”に作ってもらうので、法的に守られた契約書だ。不動産の名義変更をすると、その情報は直ちに登記所から税務署へ流れると聞いた。それならば、登記さえしなければ税務署に知られることはないだろう。案の定、贈与契約を交したものの登記所で名義変更の申請をしなかったために、税務署に贈与があったことはバレなかった。7年間、税務署からの問い合わせなどは一切なかった。

贈与契約を交してから8年以上が経過したころ、つまり時効が成立したころを見計らって、私は思い出したように贈与した土地の名義を息子に変更した。そのときの税務署の反応は予想以上に厳しいものだった。時効を利用した税逃れ以外の何者でもないと強く指摘され、重い贈与税をかけてきた。

気持ちは分からないでもない。なにせ税務署の指摘通りなのだから。しかし、こちらには公正証書がある。8年前の贈与の事実を公的に証明できる切り札を前面に掲げ、私は自分の正当性を全力で主張したが、現実はそう甘くはなかった。「贈与を逃れるために意図的に名義変更の登記を遅らせた」と判断され、結果、登記をした日を贈与があった日とみなされて、高額な贈与税を払う羽目になってしまった。8年もかけた壮大な計画が、一瞬にしてパーになってしまったわけだ。バカなことをしたとつくづく後悔している。

2010年3月7日日曜日

Vol.7 『築いた富を守りたかった―』

美容室の経営を始めて、十数年が経つが、いまなお後悔しているのが自分のお店を持って7年目に脱税で摘発されたことだ。しきりに反省したことから執行猶予付きの判決だったが、町内から村八分にされお客は激減、2年間の閉店を余儀なくされた。

私は母親一人の手で育てられたため、家はとても貧しかった。おいしいものをいっぱい食べて、きれいな洋服を着て、大きな家に住んで…。そんな欲望を満たすためには、とにかく手に職をつけることが一番だと私は考えた。そして、選んだのが美容師の道。

家にはおカネがないため、東京で美容室を経営する叔母の元に住み込みで働きながら勉強を始めたのが18歳。母も私が美容室を開くことを応援してくれ、25歳で独立することができた。

がむしゃらに働いて、お店が繁盛し始めたのは開店4年目辺りからだ。都市開発が進み、店の裏手に大規模団地が建設されて顧客が一挙にアップ。積極的に女性雑誌にヘアーアドバイザーとして登場することで、世間ではカリスマ美容師と呼ばれるようになった。名前が売れると、大手結婚式場からお抱え美容師としての業務提携も実現。美容室のチェーン展開を行うため、会社を設立して都心の一等地にも進出した。毎月、数百万円の売上報告が各支店から届くようになった。

そんなとき、頭をよぎったのが幼いころの貧しい生活。あんな暮らしには戻りたくないと同時に、お店の収益の50%近くを占める税金に腹立たしさを覚えた。私は知らず知らずのうちに脱税に走っていた。カットや着付けなど、材料を使用しない売上げを帳簿から除外する。毛染め料金のように基本料金に上乗せできる料金も売上げから除外した。もちろん、つじつまを合わせるために材料費も除外。人件費については、見習いの子を正社員扱いにして、しかも歩合給まで採用した形を取り水増しを図った。

多額の経費を作るために店舗の改装を行って、工務店にリベートを払って工事費のかさ上げに協力してもらったこともあった。アノ手コノ手で脱税を繰り返していたわけだが、やっぱりそれを税務署が見逃すわけがない。

最初は礼儀正しかった税務署の調査官は、3日目から人が変わったように怖い形相で帳簿上の矛盾点を突いてきた。私が脱税で貯め込んだウラ金の在りかを隠しとおしたため、調査開始から約1ヵ月後、裁判所の令状を持った国税局査察部から強制捜査を受けることになる。ちょうどその日は、私が店を持って7年目の記念日だった。

2010年3月6日土曜日

Vol.6 『宗教』という名のもとに…

知人の縁で、私がお寺に嫁いできたのは、27歳の時だった。独身のころは、将来自分でお店を持ちたいという夢があったが、半面、幼いころに両親を亡くしたこともあり、家族仲良く穏やかに暮らすことにも憧れていた。私の住む町は有名な寺院が多く、観光客も多い。そのなかで、住職である夫とともに、檀家や地元の人たちとの付き合いを大切に地道にやってきた。

転機は結婚から十数年後だった。近所のお寺のツツジがテレビで話題になり、多くの観光客が訪れるようになった。今思えばそのお寺への“ねたみ”があったのかもしれない。自分のなかに再び商売への想いが沸き上がってきた。私は、寺の庭園に桜やアジサイなどを大量に植え、入園料を取り、宿坊を設けて一泊5千円で精進料理を出すことにした。その甲斐もあり、数年後には四季折々の花が咲く“花のお寺”として人気を集め、想像以上のお客が訪れるようになった。

だが、せっかく稼いだお金を税金で取られるのが次第に惜しくなってきた。宗教法人には、旅館業などの収益事業から生じる所得に法人税が課税される。一般の会社に比べ税率は低いが、それでもなんとかごまかせないものかと考えた。

最初に考えたのが所得隠しだった。私は主人と共謀して家族名義の個人口座を作り、戒名代や塔婆料などお布施の一部を入金した。住職個人への講演料も、それを法人に入金せず、給与としないでそのまま口座へ。一度だけのつもりだったが、翌年は年間収入のうち2割もの額を口座に入れた。また、宿坊の売上伝票も改ざんした。宿泊客の売上分の一部を食事のみの日帰り客の代金として計上し、松竹梅と3種類ある精進料理のコースのなかで、一番高い「松」の売上の一部を「竹」に、「竹」の一部を一番安い「梅」に書き換えた。

しかし、こんな簡単な手口ではそう上手くいくはずがなかった。3年後国税当局が調査にやってきたのだ。源泉所得税の調査で、同規模の宗教法人に比べ、参拝者数の割にはお布施の額が明らかに少な過ぎたことが原因だ。宿坊の伝票操作にいたっては、ゴマの仕入数と在庫がポイントだった。精進料理のなかで、宿泊客にだけこの寺自慢のゴマ豆腐が付くが、当局はここに目をつけた。ゴマの仕入量からいくつのゴマ豆腐が作れ、さらにゴマの消費量から逆に宿泊客の売上げを把握する。そして、売上伝票の宿泊客の人数と比較したというわけだ。お布施などは非課税だが、個人的に貯蓄していたことから国税局から給与所得の源泉徴収もれと認定された。

「宗教」という名のもとにこんな拙速な脱税をしたことで、何百年続いたお寺の歴史に泥を塗ったばかりか、多くの檀家や信者を裏切ることになってしまった。

2010年3月5日金曜日

Vol.5 『脱税犯を擁護する人はいないのに…』

「正直者はバカを見る」。これが、50余年生きてきた私の信条だった。20年前に父親からパチンコホールを引き継いで12年。小さなホールだったが、堅実に経営して資金と信用を積み上げ、8年前に基幹駅前の土地を買収、念願の2号店を出店した。

それから先はサクセスロードを歩み続けた。2号店は瞬く間に県内屈指の大ホールとなり、そこからわき出る利益のほとんどを店舗展開に充てた。結果、しがないパチンコ屋だった私は、6つの店舗をチェーン展開する実業家になった。

脱税に手を染めた理由は、裏金をねん出するためだった。2号店の土地買収のとき、便宜を図ってもらった裏社会の面々への謝礼、つまり、土地買収の工作費が必要になっていたからだ。

パチンコ経営では、サービス内容や出玉調整で他店との差別化を図ることは難しい。結局、立地条件がすべてといってよい商売だ。しかし、好立地の土地を買収するためには、その筋の人を含めた“地元の名士”とのつながりが必要だ。そのための費用は必然的に裏金にならざるを得ない。では裏金をねん出するためにはどうすればよいか?答えはひとつしかなかった。

脱税自体は難しくなかった。取引会社との間で架空のリース契約を結び、申告の際には賃貸料として計上する形で過少申告。本部事務所のアルバイトの面接を繰り返し、架空人件費を上げまくった。心のなかで、脱税が違法行為から日常行為へと変わっていくにつれ、「私の信条は正しかったのだ」と強く思うようになっていた。

6つ目の店舗を開店し、次に展開するための土地買収工作を終えたころ、税務署が調査に来た。思えば、生活ぶりがあまりに派手だったからかもしれない。いつの間にか自宅は3階建てになり、酒がオールドからヘネシーになり、車がマークⅡからベンツへと変わっていた。告発、起訴され、臭い飯を食うことになった。

保釈されてから数ヶ月。私は生れて初めて裁判所に行った。

初公判で、被告席に腰を下ろした私を迎えたのは、十数人の傍聴人だ。

傍聴人の視線は厳しかった。いまどき凶悪な殺人犯にさえ「社会が悪かったせいだ」と擁護する声が出たりするが、脱税犯を擁護するものは誰一人としていない。社会の目は平等だ。脱税犯に対しては、性別、国籍、出自、社会的立場といった点での差別は一切ない。儲けているくせに税金をごまかす薄汚い奴と見られることにおいて平等だ。

「因果応報」。裁判長の甲高い声を聞きながら、こんな言葉が胸中に去来した。

2010年3月4日木曜日

Vol.4 『初心を忘れ金の亡者に』

私が脱サラし、長年の夢だった料理屋を開いたのは10年前のこと。開店したてはなかなかお客が集まらず、細々と経営を行っていたが、たとえ店が繁盛しなくても、アイデアを駆使して考えた創作料理を食べてもらうだけで嬉しかった。金儲けなんて考えていない。「おいしい」の一言だけが欲しく、次々と編み出したメニューに客は集まりだした。

客が増えたところで、落ち着いて食事をしてもらうために店を改装。小さいながらも個室を用意し、料理に邪魔にならない程度に香を焚き、生ける花を毎日換えるなど、くつろげる空間を演出。料理だけでなく、こうしたもてなしが客の心を捉え、個室は連日接待で利用する会社の重役で賑わうようになった。また、雑誌やテレビにも紹介され、ついには支店を構えるまでに成長した。もちろん、金儲けのためではない。私の料理を広めたいという純粋な気持ちだけだった。

しかし、客が増え売上が上がるにつれて「もっと金が欲しい」と考えるようになった。税金をなんとかごまかせないものかと思い、メニューを考えると同時に脱税の仕方にも頭を使い始めた。

まず始めたのが、伝票操作。通常のメニューのほかにお弁当を用意していたが、この分の売上は除外して、昼と夜の食事の伝票のみを帳簿に計上し、売上をごまかした。

また、売上除外分とのバランスを取るために、仕入金額の3分の1を簿外処理。自分だけではごまかしきれないので、肉屋や酒屋と共謀した。決済は1か月分をまとめて処理。表の分は小切手、簿外分は現金で同時に支払い、仕入先の業者には公表売上分を店名で、簿外分は架空名義を使用した。さらに、見習いで雇っていた従業員の日給も少なく計上し、差額分は架空の人件費で穴埋めして源泉所得税をごまかした。

ところがある日、私の店に税務署員がやってきた。店の常連だったA社にたまたま調査が入り、同社の交際費を確認するための調査ということだった。しかし、場数を踏んだ敏腕調査官は、客の入りや従業員数、メニューの値段などをざっと見ただけでピンときたようだ。帳簿をパラパラとチェックしながら経理上の矛盾を次々に指摘され、結局、私が考えた脱税手口はすべて暴かれてしまった。

「初心忘るべからず―」。私は料理のプロ。金儲けなんて考えずに客の笑顔だけを楽しみに仕事をしていればよかったのだ。脱税なんかに頭を使わず、メニューをひたすら考えていればこんなことにはならなかったのに。後悔したがすべては後の祭りであった。

2010年3月3日水曜日

Vol.3 『金と女』に目がくらみ・・・

「長い間お世話になりました・・・」。感謝の言葉とは裏腹に、妻は険しい表情のまま荷物をまとめた。連れ添って20数年、自分なりに家庭に対し責任を果たしてきたつもりだ。しかし、“二重の裏切り”は許されなかった―。

私が大学病院での「修行」を終えて、父の経営する内科・小児科病院を継いだのは15年ほど前。父の健康状態が悪化したためだが、自分のなかにあった病院経営のビジョンを試してみたいという気持ちも強かった。

引き継いだのは、いわゆる普通のクリニック。商売っ気のない父は、近所のお年寄りと世間話をしながら診るだけのまさに零細経営。だが、私は近隣に小児科がなかったことから、こちらにウエートを置いた。医者を選ぶのは若い母親。古ぼけた建物を改装し、駐車場も整備して、「小さいが清潔感があり、来院しやすい」クリニック作りを行った。

私の思惑は当たり、次第に大繁盛といえる状況に。設備投資に金はかかったが、それ以上の儲けが転がり込んできた。だが同時に、もうけた分だけ税金も多く取られることが惜しくもなっていた。

「先生、もっと上手くやれますよ」。経理を仕切っていたA子が言ったのは5、6年ほど前。前職で会社の経理を10年近く担当した20代後半の独身女性。数字音痴であった私にとってかなり頼りになる存在であった彼女の言葉に、「金の亡者」と化していた私はあらがう術を知らなかった。

窓口現金収入の一部を除外し、その帳尻を合わせるため、受付・事務などの求人募集で面接に来て不採用になった人を帳簿上では採用したことにして、架空人件費を計上。他人名義の貸金庫に“浮かした”金を隠した。こうした行為について、曲がったことが嫌いな妻には何ひとつ言えずにいた。そして、逆に“秘密”を共有するA子と深い仲になるまで時間はかからなかった。

私とA子はできるだけ慎重に数字をごまかしていたが、それでもスタッフのなかでは、「なんとなく怪しい」という雰囲気があったのかもしれない。ある日、国税局から調査が入った。A子と日頃から仲が悪かった他の女性スタッフが、ごまかしの一部始終を調べ、タレ込んだのだ。脱税と同時に浮気も露見し、妻は私の元を去った。クリニックの評判も悪くなり、患者数も激減してしまった。いま「金と女」に目がくらんだ代償を払いつづける毎日だ。

2010年3月2日火曜日

Vol.2 『税制改正を逆恨みした結果…』

ほそぼそと自動車修理販売会社を経営する私に転機が訪れたのは、もう10年ほど前のこと。父親の死亡で高額な遺産が転がり込んできた。東京都内でマンションの賃貸経営をしていた父親が、脳卒中で突如倒れ、そのまま帰らぬ人となり、残されたマンションを私が相続したわけだ。

マンションの時価は約2億2千万円。負債がなかったため、そっくり相続税の課税対象になってしまった。納税資金をなんとか工面して納めたが、相続してからは毎月200万円ほどの家賃収入が入るようになり、抱えていた借金の返済をしても資金的に余裕ができるようになった。

ただ、その後、しゃくなことが起きた。相続税を大幅に軽減する税制改正が行われたのだ。税理士に再度新しい税制で相続税を計算してもらったところ、数百万円少なくて済む勘定になった。新制度と旧制度のタイムラグは分かっているつもりだが、父親の死亡から大した時間がたっていないのに、納める相続税が数百万円も違ったことにどうしようもない憤りを感じた。以来、「税金は水物。正直者がバカを見る」と私は自分に言い聞かせるようになった。それがあとになって大きな間違いを引き起こすことになる。

世間のIT革命の波に乗り、私もインターネットによる中古車販売の仲介業に取り組んだ。長年の自動車に関する知識はそこで開花した。キズや事故歴、中古車の風評など高度な鑑定眼が消費者ニーズを捉え、売買成立件数があれよあれよと伸びていった。おのずと仲介手数料も増え、多額な収入を得るようになった。そこでやらなければよかったのが、仲介手数料を自分の個人名義の口座に振込ませるように仕組み、会社の売上から除いたことだ。税金に対する過去の嫌な思い出から、ヘタな工作をしてしまった。

税務署がそんな私を見逃すはずがない。ホームページのアクセス件数から顧客を割り出し、かなりの稼ぎがあると判断した調査官が、いきなり会社にやってきた。アッという間に個人口座がバレて、法人税だけでなく個人の給与課税までされてしまい、儲けをそっくり税金として納めるハメになってしまった。いくら税制が憎くても、脱税することはまた別の問題だと思い知らされた。

2010年3月1日月曜日

Vol.1 『業績アップで悪魔のささやき』

祖父の代から続けてきた小さな雑貨店の経営を父親から任されたのは、10年ほど前のこと。台所用品やバス・トイレ用品などを売る、どこの町にも必ず一軒はあるような店で、大きな儲けこそないものの、毎年家族で温泉旅行に行ける程度の収入は確保していた。

不景気で売上は減少したが、日用品を扱っていたためかさほど打撃は受けなかった。社員に給料を支払い、家族が生活していけるだけの収入はあった。いま思えば、ここでじっと不況風が去るのを待っていればよかったのだ。

先行きの不透明さに焦った私は、「現状維持」に見切りをつけ、「変革」を選んだ。ちょうど健康ブームが到来していたため、ダメもとで店の奥に陳列してあった健康器具をかき集めて「健康グッズフェア」の看板とともに店頭に並べてみたところ、これが大当たり。バーベルや発汗スーツなどの小物を中心に飛ぶように売れた。いいことは続くもので、そのころある雑誌に「健康グッズが買える店」として紹介された。これにより、遠方からの問い合わせも増えて売上も倍増。ついには健康グッズの専門店として2号店、3号店をオープンするに至った。売上は生活雑貨店を営んでいたころの10倍以上。毎年2回は家族で海外旅行に行くのが習慣になった。

売上の増加にしたがい、私のなかに税金をごまかせないかという気持ちが沸いてきた。健康グッズの架空仕入れや帳簿上のアルバイト雇用など、架空経費をバンバン計上した。慣れてくると、ダミー会社を介在させるなど手口も大胆になった。

だが、不況下に短期間で複数の支店を構えるなど、派手な展開の割に売上が少ないことが税務署の目に留まり、ある日突然、調査官がやってきて申告もれを指摘された。抜き打ちだったため、裏帳簿もあっけなく見つかってしまい、重加算税を含めたペナルティーを払う羽目に・・・。

生活雑貨店を真面目に続けていたら、こんなことにならなかった。祖父が家族を食べさせるために戦後のドタバタのなかで開業し、苦しいなかでも歯を食いしばって守り抜いてきた会社の看板にドロを塗ってしまった。今でもそれだけが悔まれてならない。