2010年3月9日火曜日

Vol.9 『金欲に溺れた“聖職者”』

教育への情熱は誰にも負けない、そう思っていた。だからこそ、機械的な教え方しか認められない公立校の教師を辞め、学習塾を開いた。民間企業でそこそこの役職に就いていた大学の同級生が好景気をおう歌する姿を横目で見ながら、「独立すればいまよりちょっとはぜいたくできるかな」という気持ちもあった。だが、少なくても当時、私はまだ「教育者」のつもりだった。

少子化の時代といわれるなか、それほどの期待はしていなかったが、20年以上に及ぶ教師生活をフルに生かし、一生懸命に、厳しくも丁寧に勉強を教えた。入塾した生徒がたまたまよかったこともあるのかもしれない。一期生から有名高校への合格者が数多く出た。さらに、二期生でその数が増えた。塾の評判は高まり、入塾希望者が殺到した。だが、自分一人で教えるには限度がある。仕方なく学校成績やテストで入塾基準を厳しくした。

ところが、「なかなか入れない塾」として逆に遠方からも希望者が出始めた。そこで、かつての教え子の大学生や教師時代の同僚に手を借りて、本格的な事業経営に乗り出した。こうなると、自分は教壇に立つ場合ではない。いつの間にか、“教育者”ではなく“経営者”の顔に変わった。収入が増えるにつれ、どのように儲けるかというだけではなく、どのようにすれば税金をごまかせるかといったことで頭がいっぱいになっていた。

生徒数は数百人と膨れ上がっていたが、それでも希望者の4分の3は入塾試験で落としていた。当初は無料だったこの試験を経費のため有料化していたが、落ちた受験者の試験料をすべて記帳から外した。定員が30人ほどの教室に40人以上を詰め込むといった状態だったのを逆手に取って、全体の生徒数を3~4割少なくして授業料を計算し、申告していた。こうした行為は数年続き、いつしか年間1千万円以上の税金をごまかした。

ここまでくると「ちょっとしたぜいたく」では済まなくなるのが人間だ。服も車も飲む酒も全てが変わった。教師時代とは逆に、同級生のほうがせん望の眼差しで自分を見ているのが分かった。

しかし、夢はそう長くは続かなかない。ある日突然、国税局による調査が入った。申告している収入にそぐわない羽振りの良さがにらまれた要因のひとつ。イスや机が増えつづけているにもかかわらず、生徒数が少ないことなども「不自然」とみなされたようだ。

神聖であると信じ、勤しんできた教育の現場。明るみになって初めて、自分自身が罪で汚してしまったことを痛切に悔んでいる。

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