2010年3月11日木曜日

Vol.11 『脱税がバレて夜逃げ…』

ワンルームマンションの一室に1台のパソコン。これがいまの私のオフィスだ。月給は20万円そこそこ。一昔前の生活では、一晩の飲み代にもならなかった金額だ。

10年前。私はテレビゲーム業界で中堅のメーカーの社長だった。それ以前のファミコンブームのときに、プログラマー2人と起業した会社だ。当初は、大手メーカーが発売するゲームの開発の下請けを手がけていたが、同時に自社製品の開発も進めていた。

起業2年目。満を持して発売したゲームが大ヒット。これで会社の経営が軌道に乗った。今思えばブームの後押しもあったのだろう。開発したゲームはことごとく当たり、日銭で数百万円が転がり込むことが珍しくなくなっていた。開発業務の打ち上げや取次店への接待で銀座に繰り出し、一晩で数十万円使うことは、寝起きにインスタントコーヒーを飲むくらいあたりまえのことになっていた。

起業4年目。思ったことが何もかも実現していたころ。経理から提示された書類を見たときに叫んだことは、今でも鮮明に覚えている。「なんでこんなにむしり取られなきゃならないんだ?」。

当時のゲームはハードの性能が低かったため、ソフトの開発費も安く、尋常ではないほどの収益を上げていた。決算を元に正直に申告した結果、課税金額は天文学的なものとなった。

起業5年目。私は所得隠しの計画を練り、実行に移した。具体的には、多角的な経営を進めることで単体の会社をグループ法人化し、グループ内で連携して所得隠しをするというものだ。私の指示のもと、グループ各社が売上の一部を除外。これを私の家族名義(役員)の普通預金にプールしたあと、その一部を「各社の事業拡大資金」として各代表者からの借入金に仮装して還流しつつ、一部を個人的に流用する形を取った。売上除外しているグループ会社を複数の国税局管内に設置したので、簡単にはバレないはずと考えて実行した計画だ。

起業7年目。私の所得隠しスキームは、アッサリと当局にバレてしまった。幸い刑事告訴までには至らなかったが、この件で会社の信用をなくし、ゲーム開発のスポンサーも次々と去っていった。起死回生の一手だったはずのオリジナルゲームも、思ったほど売れず、開発費用すら回収できなかった。それから1年後、私は夜逃げした。

あれから10年。住む場所と名字を変え、いまは携帯電話のコンテンツ開発を手がけている。いつかまた、新たな所得隠しの計画を練らずにいられなくなるような成功を夢見て。

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